{音韻的思考の檻}

瞑想の本質を教える

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瞑想マスターです。瞑想は頻繁にしていて、入口は目を瞑ってじっとしてる程度だった。 次にトランス状態の快楽に依存したり遊んでいたが、先日この行為について悟った(!)。瞑想の核心について書く。

基本

瞑想の本質は「時間性に対する意識の回避」である。 あらゆるものは時間性を纏う。時間性とは物理時間に留まらず論理時間の成立条件を指す。

注目すべき点は、これを満たすと論理的時間は存在し、物理時間は時間性の一側面にすぎないことだ。なので、動体は動いた分だけ’物理時間に関わらず’時間が経つことを意味するし、言語も文字列の依存関係は時間性の特徴を持つ。

ここまでが深い瞑想に行き着くための準備です。しかし深い瞑想はオナニーでしかないのでやる意味がない。サウナで整うのと同レベルです。重要なのは「時間性の排除」だ。

真の瞑想は時間性を持ち込まず、止め時がないのでそのまま餓死した場合は成功を意味する。まあ喧騒によって覚めるので常に失敗で終わります。

私という時計

時間性を排した先に残るのは、私の感じる時間のみ。単位を刻む標準的な時計を世界から消してしまって、時間性を測る概念を禁止したとしても、人間の意識には時が流れ続けます。生物は時間性に適応したから生存したわけで、これは抵抗できない暴力と避けがたい本能である。時間は意識において当然に存在するのではなく、解釈しないと存在しない。

瞑想は避けられない時の流れをピュアな状態で眺め続け、発展して時間性すら絶対視しない視座に向かう。 私という時計には刻むものがない。生の時間を楽しむ。これは標準時時計で切り刻まれた檻の中の現代では強烈なコントラストを含み、デトックス効果も期待できる。

時間性が排された瞑想状態で、時計がない世界は論理時間を進める根拠を失い、次第に時が静止していく。 外部の時計がなくなっても内的時間は流れ続けるが、さらにその内的時間すら論理的根拠を失って停止に向かう。そして瞑想を止めた後に世界の時間に規定された感覚から解き放されて、あなたの時計を強く自覚する。

私の時計で始めます

ということ

実践

最初は目を瞑るのもいい。けど条件は特に無い。認識的に時間性を排すればいつでもどこでもできる。目を開けていいし、動いてもいいし、したらだめなことはない。集中できるか否かが問題かな。

これだけ守ってたらできる。タイマーを忘れるでもいい。

Don’t panic