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気晴らしの終わり

この世には三島由紀夫が女性誌に寄稿した記事をまとめた全行マンスプレイニング本がある。 それの目次を模して「〜の終わり」を形式とした終焉シリーズを書こうと思う。

気晴らしの終わり

私はSNSとテレビを意図的に見ないようにしている。こういった自主的な制限の理由には「気晴らしの終わり」があります。

まず理解すべきことがあります。

ということ。これ以上に説明はいらないかもしれません。

気晴らしは娯楽メディアを丸ごと包含しているため、気晴らしを避ければプラットフォームごと避けることになる。 SNSは気晴らしの機会を生産するブラックホールなので当然に使わない。

媒体の差異は関係ありません。本を読む、会話する、スポーツなど正当化されやすい活動でも「気晴らし」であるならば行わないのです。 ただし身体のメンテナンスとして(人間の化学工場としての側面)行う必要のあるものもあります。(e.g. 運動、光合成、コミュニケーション、栄養の摂取)

普通に生きていて、個人の内面的な自由に含まれる「気晴らし」ですが、それを辞めた方が特に自由になれる。内面の自由は言語の自由で、言語の自由は哲学の自由だ。 そして哲学の自由は、人生における選択と実行の自由を意味しないため、AAAのオープンワールドに生きる一人称である我々は哲学のスキルツリーを上げてもレベル84で念力を使えるようになるけど、基本的にSTRやAGIを上げたほうが広く世界を探索できます。

次に「気晴らし」から除外される物事について、これは自分をしっかり持つしかないと思います。この記事も気晴らしのようなものですが、「公開の原則(公開するためには公開しないといけない)」を優先しました。 こういう理屈が役に立つ時はよくあります。ニートが社会復帰したり、継続的に働くためには「働くために働かないといけない」のです。こう思うと理由にも気晴らしがありますね。

気晴らしを行わないということは他者の気晴らしにも付き合わなくていいということなので、人生の可食時間は増えます。 私の場合はプログラミングでパソコンがあればいつでも進捗が崩せるから言えることなのかもしれません。

依然として現実の速度を待つ時間に「気晴らし」を必要とする人はいるでしょう。しかし、それもいつでも終わらせていいものだということも自覚すべきです。

なぜなら人生に気晴らしは不必要で、進捗が進み、現実を待つ時間に次の進捗を考えることだけが煩わしい活動の中で最も速く人生を前進し、苦しみの中で最も喜ばしいからです。 気晴らしが終わることを最後の気晴らしとしてください。

以上